両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 雑談 熊被害から見る人間のエゴ

 近頃巷で話題になっている熊ですが、根本的に熊が出没するのは熊の生存本能によるものでしょう。餌がなくなれば餌を求めて徘徊するのは当たり前です。飢えを凌ぐためや子を育てるためにも当然の行動です。


 この前提に於いて熊の駆除をどのように考えるかですが、人間のエゴだとしても第1に考えるべきは人の生命財産を守る事だと思うのです。現実的に人が犠牲になったとしても熊を守る必要があるのかどうかです。


 反対に熊の生息域まで人が侵入してしまったためとの考え方や、エサが確保出来ないような気象状況の変化も人間の仕業だとか、人間に罪があるとの考え方は理解出来ます。


 しかし全国で熊の被害者が出ている現状において、熊を守るのではなくて熊の駆除が進んでいます。その駆除に対してクレーム電話が殺到しているようです。元々の人間側に問題があるとして、動物愛護の精神は解るのですが、そのクレームの電話をしている人やその身内である親や子が熊の犠牲になっているとすると、それでも熊を殺さないでくれといえるのでしょうか。


 人は身勝手なものです。対岸の火事のように自分は安全なところにいて批判するのは簡単なことですが、我が子の通学路に熊が出没した場合、我が子が通う学校のグランドや保育園の園庭に熊が徘徊したとして、それこそ我が子が犠牲になったとしても熊を殺さないで欲しいといえるのでしょうか。


 単純に捕獲して山に帰せば良いとの意見を言う人がいますが、一度人の管理している場所で餌にありつくと、安易に餌が取れる場所として認識しますので、何度でもやってくるようになるのです。何度も近くに出没して我が子の安全が脅かされるとしも熊を放置する方が良いというのでしょうか。


 私は熊を食べる事はありませんが熊は食材でもあるのです。熊を食べなくても他に食べるものは一杯あるとの意見も聞こえてきそうですが、じゃぁ猪だったら良いのでしょうか。鹿だったら良いのでしょうか。家畜である鶏や牛そして豚だったら良いのでしょうか。


 仮にビーガンのような極端な菜食主義者が熊を殺すなというのなら、ホンの少しですが理解は出来るのですが、日常的にお肉を食べている人が熊を殺すなというのは単なる身勝手でしかないと思えてしまいます。


 人は生きているだけで罪があります。ビーガンだとしても生きている植物を殺して食べているのです。一般的な人たちは肉食もしています。魚だって食べているはずですが、生き物を殺して食べているのには違いがないはずです。生きが良い魚だから美味しいといいますが、それはとりもなおさず殺して間がないですという意味で、活き作りは今殺しましたって意味です。


 肉食獣や肉食魚は必要以上に殺したりはしませんが、人間は遊びで生き物を殺しています。それこそ勝手な思想で人を殺してしまうのです。戦争を仕掛けた側にいる指導者のエゴでしかないと思えますが、ヘラブナ釣りだって再放流するとしても痛めつけている事に違いないのです。ジャミが釣れたとしてポイッと陸上に捨てる釣り人がいますが、1匹や2匹殺してもジャミは減ったりしません。無益な殺生をすることなく池に戻してやれば良いと思うのですが、殺してしまうのも釣り人の性でしょうか。


 誰しも主義主張はあるでしょうが、自らの行動を省みてもなお主張すべき事であれば大いに声を上げることです。しかし当事者の置かれている立場を理解できないで、対岸の火事を見ているような人に何の発言が出来るのでしょう。


 何事も当事者の立場に立って考えることが必要ではないでしょうか。


 私自身身勝手な考えの持ち主です。一義的には自分さえ除ければいいのです。自分を差し置いて人の幸せなんて願えません。人の批判が出来る資格もこれっぽっちもありません。でも理不尽さは好きになれません