両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 ヘラブナ釣り 優雅な一時に

 今日から連続的に仕事が忙しくなってしまいます。果たしてこのブログが続けられるのか、それこそ上手く休みが取れるのかもわかっていませんが、最近の釣果は満足のいく数値に達していませんので、毎週必ず釣行したいとの意欲が半減してしまっているのですが、仕事が忙しいほど休日が欲しいもので、毎日が休日になってしまうとそれこそヘラブナ釣りにも足が遠のくのではないかと思ったりもしています。


 以前のブログには人生を有意義に過ごすために釣りを覚えるべきだと、名言集的な内容を載せたことがあります。どんなに忙しくても釣りを優先するのが釣り人の宿願でもあるはずと書いていたのですが、実際問題としてはそうも行かないのが現実です。


 その昔鮎釣りに血道を上げていた頃は、日曜などの休日ではなくて人の少ない平日に釣行したいと思い続けていました。ヘラブナと違って鮎釣りは如何にそのポイントが独占出来るかで釣果が全く違うわけです。人影を極力隠しながらその瀬を独占することで次から次とアタックしてくる野鮎の強烈な当たりは、まさに麻薬的と表現出来るほどのものでした。いや麻薬の魅力は知りませんよ(笑)。


 今より性能が劣っていた鮎竿は、現代の高性能なカーボのロッドとは違い、初期の当たりや前触れが全く感じられなくて、突然ひったくるような当たりが出て始めて釣れたことが解ったのです。その当たりは石鯛釣りにも匹敵すると表現されるほどの強烈なものでしたから、強い瀬に立ち込んでの当たりはそれはそれは素晴らしく虜になってしまいました。
 いや今でもある河川では強い瀬に立ち込んで強烈な引きを味わえる瀬はありますが、もし今その瀬に立ち込んでしまうと、あっという間に流されてしまって帰らぬ人となりかねませんので、流石に足を踏み入れるには躊躇してしまいます。


 私のように小市民は、平日に釣行するような事も出来ずにいましたので、平日の釣行に憧れ続けていたのですが、現実的に連続休暇が取れたとしても全く釣行することなく、やはり忙しくて休みが取れない時ほど釣行意欲が湧いていた記憶があります。
 昨今ではその意欲も徐々に減っているのですが、これは釣果だけが理由となっているのかそれもと寄る年波のせいなのかは解りませんが、もっともっと優雅な時間を持てるような釣りであっても良いような気がしています。


 しゃかりきになる必要はないのですがついつい次の1枚を求めてしまって、見苦しい釣りになっているような気がしています。
 ある程度釣れたらそれで良しとするような、意欲の低下ではなくて満足度の受け止め方、ヘラブナ釣りに対するスタンスなどを見直しても良いように思えてきます。
 その為には数こそ命とはいいませんが、枚数を如何に上げるかではなく1枚1枚の楽しみ方を考えるとするなら、豪竿で引き抜くような釣り方ではなく、軽量竿で軽快に釣り上げるのでもなく、本調子のような綺麗なしなりを眺めながら、ヘラブナの動きを静かに受け止めていなしながらも取り込む。その昔のヘラブナ釣りのような優雅に流れる時の中に身を委ね、ゆったりとした時間が過ごせるような釣り方にシフトすべきなのかも知れません。


 なんて書くととても爺臭いのですが(笑)。枯れるにはまだ早過ぎますのでそれなりに強い意志を持って釣行を重ねるのですが、別に人と競っている感覚は無いのですが、結果的に少し多い目に釣り上げる事が出来たとすると相対的満足度が高まってきます。
 ヘラブナ釣りにおいて絶対的満足度が得られるとするならば、人との比較ではなくて自己満足として受け止められるはずです。その絶対的満足度は人によって違っているでしょう。夢50のように50㎝オーバーを釣り上げる事が出来るとすると、自己満足が得られるのかも知れませんが、それもついつい人に自慢したくなったとするとすれば、それは相対的満足度になってしまいますので、人より1㎝でも大きいサイズを求めてしまうことになります。


 人との比較は簡単には無くせないのかも知れませんが、単独釣行の寂しさは人恋しい感覚だけではなくて、相対的な感覚の上で喜びや嫉妬心なども案外釣行に与えるスパイスになっているのかも知れません。


 人生枯れるには早過ぎますが、これで十分とするには何が足りないのでしょう。