両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 ヘラブナ釣り フッと思うのですが・・・太公望

 毎週毎週飽きせずにヘラブナ釣りに通っていますが、実際のところある程度釣れるようになったとしても、未だにどうすれば当たりが出るのだろう、どうすれば釣果が上がるのだろうと思い続けています。


 そこでフッと思うのが、へラフな釣りでは満足ということはないのかも知れないと思うのです。


 仮に50枚釣れたとしてその日は満足出来たとしても、また次の釣行時にはどうしたら釣れるだろうと考えながら釣りを展開しています。


 ただ周りを見ていますと、一部の釣り人ではあるのですが、当たりが出るまでジーーーっと浮きを睨み続けている方がいます。確かに両うどんの底釣りをしていますと、うどんは取られにくいこともあって、待ち続けているといつかは当たりが出るのかも知れません。


 そして突然のツン当たりをパシッと合わせて釣り上げるのも、居合抜きのように面白い釣り方ではあるのですが、待ち続けられるような精神的安定を欠いている私には、到底待ち続けるなんて事は出来ません。


 如何に浮きが動いて食い当たりが素早く出せるか、そればかりを考え続けていますので全く気が休まることはなく、翌日には心身共に疲れてしまうのです。これではリフレッシュなんて到底出来そうにないのですが、それでも懲りずにまたノコノコと出かけてしまいます。


 釣れないからこそ釣れたときの歓びがあるとしても、最近特に思うのですが、単独釣行で満足出来なくなっていることです。別に競い合いたいとは思ってないはずですが、人より頭1つ抜け出す釣果の快感、人より1㎜でもサイズアップできる歓びなど、結果として競い合うことで歓びを増幅させているような、そんな感覚になってしまうのです。


 そうなると純粋とはいいませんが、ヘラブナ釣りを勝敗の道具に使っているとも取れるわけで、否定していても仕方ないのですが、大阪などの釣り堀で賑わっている池は、池主催の長寸大会が行われていて、毎回釣り上げたサイズによっての賞金や商品が提供され、1ヶ月単位でのサイズ競争には多額の賞金が用意されています。単純に釣り上げる楽しみではなくて、パチンコ店のような博打的な要素のある池が賑わっているように感じます。


 ただそんな池は沢山釣れることり、大型サイズが釣れることばかりが気になるようで、人が良いサイズを釣り上げるとそれを目で追うようになり、検寸して帰ってくると何㎝あった?と質問が飛ぶのです。


 人は競う遭うことで歓びを感じるものなんでしょうか。人と比較して勝っていると思いたいものなんでしょうか。


 邪(よこしま)とまではいいませんが、パチンコ店や競馬にいく動機に似ていると思えてしまいます。


 まぁ私だってその1人ですから、まさに卑しい心の持ち節だとは思うのですが、元々の関西での釣り堀では良くあったシステムで、キロ数の買取制やサイズによる買取があったのです。
 また40年ほど前になりますが、鯉釣りなどでは釣り上げた鯉を持ち帰るシステムもあり、自宅で食べられるように鱗を取り内臓を出す下処理までしてくれる池がありました。


 今は楽釣りと称する全再放流システムが多くなっていますが、滋賀県の清風池などでは毎月27日をフナの日として、大助を釣り上げると1日招待券が貰えるシステムもあります。


 どうしてもお得感があると人が集まる傾向があり、反対にそのお得感が薄れた池は人が遠のくようです。単なる釣る楽しみとは違うところに楽しみを見いだしてしまっているように感じます。


 ヘラブナ釣りの人口が減り続けていますが、関西式買取制を取り入れられるのも、案外良い方法かも知れません。ただ超大型の池などでは難しいシステムかも知れませんが、集客を考える上では必要なシステムかも知れないと思ったりします。
 池によっては自動計量器を備えているようですから、池全体の大会も可能に思います。


 太公望のように糸を垂らしているだけで楽しいと思うような、達観してしまうのもなんだか寂しいですからね。


 太公望は釣り竿の先に糸を付けていたけれど、針は着いていなかったとのことで、中国には太公望が座っていた岩とされる場所があります。正座していたように岩がへこんでいるのですが、人が座っているだけで岩がすり減るなんて事は決してありませんけどね(笑)。

 *太公望の本名は呂 尚(りょ しょう)といいますが、周の文王に仕えたのです。この文王の亡くなった父祖である太公が望んだ人物ということで、太公望と称されるようになったのですが、本当のところは解っていません、ただの逸話ですけれど中国の話は何だって大げさで、どこまで本当のことは全く信用できないといっても良いくらいで、史実とされているものも勝ち組の歴史ですから、良いように書き換えられている可能性の方が高いのです。
 *下記はウキベディアより拝借した絵です。


 しかし太公望も軍師となったのですから、釣り糸を垂れて釣れなくても良いと達観していたわけではないんですよね。餌を付けないで釣り糸を垂れていると天下が釣れるかも知れないといったとされているのですから。余程欲が強かったのかも知れませんね。


 ん?ということは私も欲深いのですから太公望と同じって事ですかねぇ(笑)。