両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 ヘラブナ釣り 釣れない原因を池の責任にする

 ヘラブナ釣りでは良く釣れて当たり前。反対に釣れなくても当たり前と感じているはずです。特に厳寒期は当たりすら出ないことは多々ある事ですが、集魚効果が出ているにも拘わらず当たりが出ない事もあり、当たりが出ても針掛かり出来ないいわゆるガツンになったりします。


 この差はいったい何だろうと思うのですが、当然そこには何らかの原因がありそれにともなって結果があるはずです。仮に同日他の釣り人は調子よく当たりを出して釣り上げているにもかかわらず、自分は当たりすら出なかったり当たりが出てもカラツンになって釣り上げる事が出来ない場合にいったい何をすればいいのでしょう。


 底釣りの場合は釣果をなんとか得たい場合に先ずは底の取り直しをします。浮き下が合っていなければ当たりが出ないなんて事は良くあることですから、先ずは底を測り直すことから始めます。そして餌の工夫や浮き下のズラシ巾なども調整して、なんとか当たりを出そうとするのが一般的なはずです。


 ところが不思議なことに自分の釣り方は合っている。この釣り方とこの餌で間違いないとの確信を持っている方に限って、この池は釣れないと自分の工夫の足り無さを棚に上げ、釣り方ではなくて池に問題があるのだとの結論を作り上げてしまいます。


 確かに他の池に行くと良く釣れる場合もあるのですが、それは偶然であって日常的に良く釣れるとは限らないはずで、特に1度か2度良い釣果を得られた経験が記憶として残り、この池は駄目だからあの池に行きたいとの理由付けとなってしまいます。


 ところが当然のように他の池に行ったところで毎回良い釣りが出来る訳ではなく、今日のこの池は駄目だとまたまた池に問題があると決め付けてしまいます。


 実際釣果にクレームをいう方は決まっていて、クレームをいう人に限って工夫が足りないのです。その工夫の多さは経験値の違いと思っていました。そういう意味ではベテランさんには適わないと思っていたのですが、そのベテランさんこそ昔の記憶に凝り固まったところがあり、この釣り方で釣れないのは池に問題があるとの結論に導いてしまうのです。
 面白い事に季節が移り変わることで偶然釣果が良くなる場合があります。そうすると今度は池が良くなったのではなくて、自分の釣り方が正解だったと釣れた原因は自分の腕にあると思うようになります。


 実は良く釣れたときほどどうして良く釣れたのかを探っておく必要があるはずで、それは餌が良かったのか仕掛けが良かったのか、その時のどんな対応を取ったのかを記憶して、次に良い当たりなどが出なかった場合の対応方法の参考にすべきだろうと思うのです。
 ただ人はどうしても過去の栄光にしがみつきたくなります。昔コレで良く釣れたとの思いが強すぎて工夫できなくなっているようです。


 私なんか決して腕は良いとは思っていませんので、どうしたら当たりが出るだろうどうしたら釣り上げる事が出来るだろうと思い続けています。1日の内でも良くされる時間帯と釣果が上がらない時間帯があります。その差を出来るだけ縮めたいと思うのですが、なかなか上手く行かないで悩んでしまいますが、実際初心者と言われる方の方が対応に素直で、こんな方法がありますよとかこうすれば当たりが出やすいとか、何となくのヒントを与えると釣果が良くなったりします。
 ただあくまでもヒントであってこうしなさいと決め付けたりはしません。それは人それぞれの散釣り方の違いがあり仕掛けも違っているはずです。道糸やハリスのメーカーも違っているでしょうし浮きの浮力も違っているはずですからね。
 ただ全く同じ事をしても違った結果になってしまいますが、最後の最後は餌の付け方の違いだったりします。仮にうどんに附着させるまぶし粉の圧力は強い方が良いと仮に指摘したとしてもその強さは人それぞれです。ノリやドロを使った方が良いと指摘したとしてもその量は全く同じには出来ません。最後は自分に合った工夫をする必要があります。


 ある指摘で自分なりの対応をどのようにするか。それを探り当てると釣果も伸びるはずですが、指摘を受けるよりも自分なりに考えて答えを出す方が楽しに決まっていますし、結果として身につくはずです。私自身も聞かれたら答えますが教え魔のように無闇に指摘はしないようにして、それは自分で考える楽しみを奪わないようにしているからです。


 さて前回の釣果は如何でしたか?。良い釣果でしたかそれとも撃沈されてしまいましたか?そのどちらも自分の工夫による結果だったので、池が悪かったわけでも良かったわけでもないのです。
 そう思って釣果を振り返ると違ったものが見えてくると思います。