両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 ヘラブナ釣り 退屈ですか?

 もう3月です。早いものですが春はまだ遠く、今週の土日はこの冬一番の寒さになりそうです。夜明けが早くなり日の入りが遅くなっているのが実感できますのでもう春のはずですが、この時期の寒さはいつも以上に身にしみます。


 釣れてくるヘラブナの抱卵しだしていますから、そろそろ春の釣りに切り替えるべき時が来ています。当たりの出方も明確になる事でしょうから、爆釣・・・はまだ無理だとしても、抱卵している大型のヘラブナが釣れてきます。先日も釣友が55㎝と釣り堀ではあり得ないサイズを釣り上げていて、大会も同場所で開催しますが、大荒れの大会になりそうな気がします。


 さて水温の低い時期は、当たりが出ないとか食わないとか、釣れないことを嘆くこともしばしば起きてしまいますが、そのとき退屈だと感じているでしょうか。


 退屈とは暇と同意語ですが、「退屈」の本来の意味は、修行僧が修行に耐えきれずに逃げ出すことを意味します。「退」はしりぞく事で「屈」は身をがめる事を意味します。


 ヘラブナ釣りをしていて退屈と感じた場合は、さっさと竿を納竿して逃げ出すって事でしょうか。


 また釣れなくなって池中をうろうろとしている方がいますが、この「うろうろ」も実は仏教用語で、うろうろの「うろ」は有漏と書きます。「漏」は煩悩を意味していますので、煩悩が有るってことです。つまり煩悩に悩まされている人って意味になりますから、釣れないでうろうろとしている人は、煩悩に悩まされて歩き回っているのでしょうね。(笑)


 ヘラブナ釣りではいろいろな工夫をしますが、この「工夫」も仏教用語から来ています。本来は工夫弁道(くふうべんどう)といいますが、禅問答を積み上げていく事を意味し、問答を通して答えを導き出すことです。


 釣り堀では迷惑な人がいたりしますが、この「迷惑」も仏教用語です。迷い惑うのですから、仏教が理解が出来ていないことを意味しますので、ヘラブナ釣りが理解できてない人って事になりますね。


 日常に使っている言葉には仏教用語が元になった言葉は案外多く、それこそ日常に溶け込んでいるのですが、意味は随分と違って使われるようになっています。各家にある「玄関」も悟りを開く関という意味ですが、単に建物の入り口として使われるようになっているのです。


 ヘラブナ釣りから出た言葉は・・・ありそうにないですね(笑)。


 しかし昔からヘラブナ釣りをしている釣り師は、ヘラブナのことを「ジャコ」と表現します。新ベラの放流も新ジャコが入ったといいます。どうしてそうなっているのかは全く知りませんが、私は入門が遅いものですから新ベラと表現しますが、ジャコの語源は雑魚(ザコ)です。ヘラブナを雑魚扱いにするのもどうかと思うのですが・・・。


 また当たりが出て合わせても針掛かりしない当たりをカラツンと表現しますが、空針を引くことをヘラブナが「着いてこない」と表現される方もいます。私的には海釣りをしていましたので針に乗らないと表現してしまうのですが・・・・。


 余り進められないですが、ヘラブナ釣りでも賭け事をされる方がいます。大助を釣るといくら、金魚を釣るといくら、目に掛けると罰金とかですが、それを「まんじゅう」と表現されています。どうしてまんじゅうというかは全く知らないのですが、ゴルフなどでは「ニギル」といったりしますが、ニギルは元々はビジネスシーンで合意をする意味として使われます。


 多分ですが元は米国などでは合意が出来ると握手をするのですが、握手をにぎるとなったのではないかと想像出来ます。ゴルフのニギリも賭け事が合意が出来た事から来ているのかも知れません。


 ヘラブナ釣りからなんだか脱線しっぱなしですが、当たりが出ないときは何を考えられているでしょう。それこそ当たりが出るまで無なのでしょうか。それとも今か今かと待ち構えているのでしょうか。


 当たりが出るまでは退屈でしょうか。それとも頭をフル回転されて如何に当たりを出すか考え続けているでしょうか。考えているとすると決して退屈になっている暇はありませね。そろそろ竿の尺数を変更すべきか、餌を作り直すべきか、ハリス長を変更すべきか等々、迷いと共に考え続けていたりしますので、決して退屈になる時間はないはずです。


 だからこそ長時間も浮きをにらみ続けることが出来るのではないでしょうか。それこそ何もしないでいると、たった1分でも長く感じてしまいますが、釣り続けているとあっという間に時間は過ぎてしまいます。ただ漠然と時間ばかり過ぎているとすると、なかなか釣果を良くすることは出来ません。


 単に浮きを見続けているだけのような、退屈になっている暇はないと思うのです。