両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

ヘラブナ釣りを楽しむ天釣会の記録
及び個人の記録と感想です。

*ブログ内容の二次使用は禁止します*

 ヘラブナ釣り 言葉の変遷

管理人

 日本語は若者中心として、色々と変化を続けていますが、国語辞典に取り上げられる頃には、また次へと変化をしているのですから、日本語の変化は留まることがありません。


 使っている意味も時代と共に変化するのも仕方なく、本来の意味は違うと指摘されたとしても、違った意味で使われることが多くなっている現状で、意味がわかってないと指摘しても仕方のないことです。


 琴線に触れるは、素晴らしい物に触れて感銘を受けるいみですが、逆鱗に触れると混同して、怒りを買うと解釈していたりします。

 敷居が高いなども、面目なくて訪問できないとの意味ですが、高級店に行きにくいとの意味で使われたりしています。

 実は私も間違っているのですが失笑です。失笑を買うとか見下している様な場合に使っていないでしょうか。本来は思わず笑ってしまうという意味です。随分と違いますが、間違って使っていたとしても、相手に伝わらなければ意味がないのです。 


 そこでヘラブナ釣りで使われている言葉ですが、ヘラブナ釣り歴の短い私には疑問符が付くこと良くあります。


 特に半世紀にも及ぶヘラブナ歴を持っている方が使われるで、ヘラブナ釣り業界では普通の言葉なのだと思いますが、それでも他の釣り経験が長い私には、違和感がとして伝わります。


 ヘラブナ釣りで、口に掛からないで釣れた事はスレと表現しますが、口掛かりの場合はなんというのでしょう。私の場合は単に口掛かりと言うのですが、「噛んでいる」と表現される方がいます。


 噛んでいる?まぁ確かに口の中に針があるのですから、噛んでいると表現しても間違いではないのでしょうが、歯のないヘラブナが餌を噛むことはなく、単に吸い込んでいるに過ぎないのですから、???と疑問符が付いてしまいます。


 また新しく放流されたヘラブナのことを、新ベラと表現するのが普通の事と思っているのですが、新ジャコと表現される方がいます。ジャコは雑魚(ざこ)の事ですから、新ジャコとの表現にはやはり???と疑問符が付きます。


 他に当たりがあっても針掛かりしない場合はカラツンと言いますが、その時の針掛かりしないことを、「付かない」とか「付いてこない」と表現されるのです。海釣りなどでは針に掛からないことを「乗らない」と表現していましたので、この場合も???と疑問だったのです。


 浮き下の長さを表現する場合、1本とか2本と表現しますが、ヘラブナ釣りだけで通用するもので、海では1ひろ2ひろです。ひろは漁師言葉ですから、案外多くの方が知っているはずですが、1本は約1mのことで竹竿の1本の長さから出た表現です。


 そういえば・・・1ヒロは約1.5mですが、その半分は半ヒロでいいのですが、矢引というサイズもあります。片手を伸ばして反対の腕の付け根まで、弓矢を引くときに脇の部分まで弦を引きますが、その動作がそのまま長さを表す表現になっているのです。


 言葉は時代と共に変化しますが、地域ごとの変化が一番解り難く、放言はまさに地域差によるもので、その土地独特の言い回しになります。京都や関西では「ありがとう」は「おおきに」と表現します。今でも普通に表現していますが、私的な使い方は、おおきにありがとうと、何故か続けてお礼の言葉としています。


 京都が文化の中心だった頃は、京都で発生した言葉が、同心円を描いて地方へと広がっていきます。公家の言葉や宮中での女房詞(お姉言葉)等はその典型で、あられや煎餅のことは今でもおかきと表現します。惣菜もおかずでおばんざいなんて京都人はいわないのです。雑炊もおじやで普通に通じますが、若者には理解されるのでしょうか。


 鰹節の削り節を関東ではおかかと表現するそうですが、京都では使わなくなっていますが、お風呂、おでん、おひやは今でも使い続けていますね。

 詞の変遷で面白いのが、夜詞(よることば)と昼詞(ひることば)の違いです。このおかかも鰹節のことですが、夜に使う表現がおかかだったのです。水をおひやと表現し、野菜をあおものと表現するのも夜詞です。


 今でも違和感なく使っている言葉の代表は「おふくろ」です。母は昼詞でおふくろは夜詞だったのですが、男が母親を表現する言葉として何の疑問もなく定着していますね。そのように言葉の意味は時代とともに変わっていくのですが、間違った意味で使っているとは言えなくなっているのです。


 言葉は京都を中心として、水に石を投げた波紋のように、同心円で伝わっていくのですが、今ではその距離は無いに等しいので、瞬時に伝わるのですが、その昔は人の移動によって口伝として伝わる程度でしたから、新しい言葉も時間が掛かり伝わっていきます。伝わる途中でも変化が起きて、その土地に到着した段階で、京都ではまた新しい言葉が使われ出しているので、その伝わる速度の差が放言として残って行きました。そのため島根県と青森県で同じ表現が使われていたりするそうです。


 これがもっと距離が開くと、大きな言葉の違いとなるため、北海道の先住民と沖縄では全く違った言葉です。それが海を越えて日本語と韓国語や中国語の差となり、距離が開くほどその差が大きく開きますので、翻訳や通訳が必要なほどの違いが現れます。


 現代の日本では、ネットによって使われる言葉の変化は早く、また違った意味で使われることも多々あります。それが単なる間違いではなくて、言葉の変化そのものを表しているのではと思うのです。


 まぁ若者が省力言葉を使うのは時代の変化だとしても、ある固定的な意味を持って使われる言葉を間違って使うと、受取り方が大きく違ってしまいます。


 寝ている赤ん坊を抱いている写真。私の場合はスヤスヤと眠ると表現するのですが、安らかに眠ると表現する人がいるそうです。え?その赤ん坊は亡くなったの?と私は捉えてしまいます。


 ある方が行方不明だったご亭主が無事に帰宅した場合。無言の帰宅をしたと表現されたようですが、え?ご亭主が亡くなったの?と私は解釈しますが、その主は無事に帰宅したことを表現したかったようです。


 言葉は意思疎通には重要なアイテムです。自分が使っている言葉が、その意味を伝えられていなかったらどうでしょう。誤解から争いに発展するのではと思えてしまいます。ヘラブナ釣りで使う用語で争いは起きませんが、昔から使っているから通じると思うのは早計で、業界用語も内々だけで通じるものです。


 いまだにヘラブナを1枚2枚と表現するのには、少しの抵抗を感じている私です。

ヘラブナ釣り愛好会 天釣会

×

非ログインユーザーとして返信する