両うどんのヘラブナ釣り

ヘラブナ釣りで人生を楽しんでいる日曜釣り師です

常時50枚の釣果と大助を釣り上げるために

 ヘラブナ釣り ヘタレの釣り師と池の存続

 釣り堀でのヘラブナ釣りは、数を気にしなければ釣れて当たり前と思うことは間違っているのでしょうか。野釣りをされる方にとってボーズはある程度覚悟の上でしょうか。


 ダム湖などで放流されていると管理池との表現になって、純然たる野池ではないとするならば、琵琶湖本湖ではなくて流れ込みの川や傍にある池は野池でしょうか。純然たる野池というものが存在するのかどうかはわかりませんが、濃密放流されていない限り野池としていいとするならば、春のはたきのシーズン以外は釣りにくいと考えて良いのでしょうか。
 私自身釣れるかどうかわからない野池に行く自信はなく、また鯉やニゴイにワタカなどの他の魚が掛かってきたり、オイカワやクチボソのような餌取りに見舞われるようなところで、1日に数回あるかどうかの当たりを待ち続ける。そんな1日中荒行をするような修行僧に似た精神は持ち合わせていないのですから、否応なしに釣り堀へと出かけるのであります。


 釣り堀で餌釣りの猛攻に遭ったとしても、野池に比べれば優しいものだと思うのですが、その餌取りの当たりの中からヘラブナの食い当たりを的確に見定めて、エイヤっと合わせる痛快感に酔いしれているのであります。


 しかし釣り池によってはいつもいつも簡単に釣れる訳ではなく、季節要因も大きいのですがそれ以上に、密度の差なのか水質の差なのかわかりませんが、良く釣れる池とそうでない池が存在するわけです。


 私のようなヘタレの釣り師としては、野池は当然として放流されているダム湖だとしても敬遠しているのですが、釣り堀とて苦労しても報われにくい池に訪問しては、ああ今日も釣れないと嘆くのであります。
 そんな嘆きの後にはその傷を癒やしてくれる池に訪問したくなるのですが、だとしても簡単に釣れすぎる池にも行きたくないという我が儘さは、自分でも呆れるばかりではあるのですが、ほどほどの苦労をして結果が伴う釣り池はとても魅力的ではあるのです。


 私的には何も考えないで結果として釣れないのは当たり前の事で、何もしなくても釣れる池だとするとこれもまた面白くもなんともなく、それなりに苦労することで釣果に差が出て、それなりの結果が伴う池があるとすると魅力的に感じるのであります。
 特に前の日曜日に難しい池に訪問して撃沈されてしまいますと、なんか悔しくてというか自分の腕のなさを棚に上げて優しい池に訪問したくなってしまいます。しかしその優しい池であったとしても甘えて安心しているとシャンとしなさいとしっぺ返しにあってしまいます。しかし少しの工夫で思った通りの釣りが成立すると先週の辛い釣りなんてすっかり忘れ、次の釣行へと意欲が湧いてくるいい加減で軟弱な釣り師であります。


 そんな厳しいく尚かつ優しく受け入れてくれる母なるホーム池へ行くことが、私の道具立ての組み立てと知らす知らずの間になっていたのですから、池の影響力の大きさを感じざる得ません。


 しかし、その母なる池が変に小難しいことを言い出してきたが為に、釣り人の訪問が極端に減りだしているのです。同時に池そのものが荒れ出しているのを見ると悲しくなってしまいます。
 圧倒的な原因は管理者に因るところなのですが、利用者側の釣り人にも非はあるはずです。今まで甘えてきた結果もあり強く出られると反発する。そこには甘えが当たり前になっていたといえそうです。
 私的には提供者と利用者は同等だと思っています。互いにルールを守ってこそ成立するはずですが、お目こぼしが当たり前だったところもあったがために、ルールの厳格化は腹立たしいと感じてしまうのでしょう。
 実際釣り堀は減る一方ですから、如何にして存続させるかもとても重要な問題だと思うのです。池主に全ての責任を負わせるのではなくて、利用者である釣り人にも負担を取って池の維持に努めるべきだろうと思うのです。
 ただ利用者が減ることが結果として池川の厳しさに繋がっているようで、どちらが先かはまさにイタチごっこ、改善する意思がない限りこのまま廃れてしまうのではないかと思っています。


 ヘタレの釣り師としましては、母なる池がなくなるのはとても困るのです。厳しい池に通うことで本当の実力がバレてしまいますからね(笑)。なかなか困った事が起きているのであります。
 取り敢えずこのままではダメですが釣り人側が出来ることは、足繁く通うこと以外なさそうです。Go to キャンペーンの中にGo to 釣りキャンペーンもあって良いと思うんですけどねぇ。